「り」はリープ航法の「り」

(中島らもを真似るわけじゃないけれど、日記のテーマをしりとりにしてみる。「しりとり」で始めてもネタがないので、「しりとり」→「リープ航法」でスタート)

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「なあ、リープ航法ってあるだろ?」
「なんだ唐突に。ワープと言った方が一般的じゃないか?」
「一般化されすぎちゃって、超光速はみんなワープと呼ばれてるみたいな気がするからな」
「ふむ、でもFTLってあんまり知られてないからな」
「だろ? だいたい、ヤマトのワープとスタトレのワープは違う」
「生中お待たせしましたー。スタトレのワープはワープフィールドで船を包むと、相対性理論を無視して光速以上が出せるってものですよねー」
「そうそう。で、ヤマトのワープは四次元空間を通ると、三次元的に進むより近道できるってヤツ」
「ああ、要するに昔のSFによくあった、紙を折り曲げて2点を近づけるっていうあれだな」
「そう。それが僕がここで言うリープ航法だ」
「まあ、自前のエネルギーで空間を曲げちゃうのは、さすがに無理がありそうですよね」
「いや、だから、三次元はより高次元から見ると曲がっている、という設定になってるたりするよ」
「あらかじめある曲がりを利用するんだな」
「三次元空間って、高次元の視点からだと、ずいぶんいびつなものなんですねー」
「いや、それはまあね」
「ごゆっくりどうぞー」
「まったく。ところで、なんだっけ?」
「思うんだが、僕って方向音痴だろ?」
「ああもうひどいもんだ」
「こういうことじゃないだろうか。方向音痴とされる人々は、より高次の方向感覚を備えており、それゆえに、歪んだ三次元空間でみると間違って見える方向を指し示してしまう、と」
「はあ? なに言ってるんだ?」
「曲がってるのは三次元空間の方なんだよ。僕は高次元的に正しい方向を認識しているんだ」
「てか、君、同じ場所なのに指してる方向が日によって違ったりするぞ。どっちが正しいんだ?」
「そりゃな。四次元的視点と五次元的視点では異なるだろ」
「もはや何でもありだな」
「四次元的には三次元より遠いって場所もあるだろうし、色んな高次元の中で選択しないと、近道できる場所が限られるじゃないか」
「ほほう。ワームホールを使ったゲート方式ではないと言うんだな」
「こちら、おさげしますねー。じゃあ、いつか人類がリープ航法を手にしたときには、お客さまみたいな高次元方向感覚を持つ人たちが航海士として活躍するんですねー」
「それだ! これからは我々のことを「方向音痴」ではなく「高次元方向知覚者」と呼びたまえ」
「ていうか、それは三次元的な空間連続性を関知する能力の欠落じゃないか?」
「あー、もしかすると酔歩してしまうかもしれませんねー」
「時間的じゃなくて空間的にな……って、あれ?」
「どうかなさいましたかー?」
「連れはどこに行ったんだ? さっきまでそこに……え? ほんとに酔歩した?」
「お客さまー、お支払いをー」
「えっ? 俺が全部払うのか?」

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 次は、「リープ航法」→「ウラシマ効果」かな

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緑の恐怖

 今日は双子座流星群だ。
 流星群と来たら、もちろん


 トリフィドに注意!

 ワイアール星人も、まあ似たようなもんだろう。

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TOEにMOEを?

『万物理論』(グレッグ・イーガン 創元SF文庫)を読んでいる。分厚いんで、なかなか読み終わらない。まあ、面白い本が長いのはいいことだ。

 あらゆる自然法則を包括する単一の理論、万物理論(Theory of Evrything. TOE)をめぐる、壮大でめまいすら感じる「圧倒的な知的スリル」。

 以下、ちょっとだけネタバレ含む。
 
 
 
 
 
 
 

 主人公は科学専門のジャーナリスト。専属契約しているらしいネット配信会社から依頼を受け、取材した映像を自分で編集し、番組の形で納品する。
 そのため、結構いい生活をしていて、高級住宅地の一軒家に住んでいる。一緒に暮らしているのは、風力発電の研究所で働く材料学博士。
 そんな彼が、万物理論の取材をすることになる。提唱者は3人いて、それぞれ別の理論を唱えているんだが、彼が取材するのはそのうち最も若い、20代の新進気鋭の物理学者だ。
 ただし、万物理論をめぐっては、それがすべてのものを科学的に説明可能にしてしまうものであるということで、神秘主義のカルト団体がいくつも集まって、大規模な反対運動を繰り広げている。科学への傾倒は人間性を失わせるものだとする人々だ。
 主人公は、取材に向かう飛行機の中で、そういった現象を取材に来ている社会科学者に会う。また、カルト側のレポーターとして起用された、過激な社会活動をする作家も目にする。
 取材を進めながら、ようやく物理学者の信頼を得はじめた主人公の前に、謎めいた秘密主義の疑似科学カルトが現れる...

 というような内容なんだけど、どうも気になる点がある。上の文章は、あえてある情報を隠して書いた。

 実は、主人公と同居している材料学の研究者は女性。早い話が彼の同棲している恋人。
 最年少の万物理論(TOE)の提唱者である若き天才物理学者も女性
 学会を取材に来ている社会科学者も女性。カルト側の取材者である作家も女性
 謎の秘密主義カルトの代表として主人公に接触してくるのも女性

 だいたい登場人物のほとんどが女性なんだよな。まともに名前が出てきた男性なんて、恋人の兄(学生時代からの親友でもある)と、学会の開かれる南の島で絵描きをしている老人ぐらいのものだ。
 ちょい役の医者でさえ女性なんだもんな。

 ギャルゲーか? いや、間違いなくハードSFなんだけどね。
 しかし、驚くべきことに、この本をやおい作品として読み解いちゃった人もいるんだよな。まあ、それについてはここでは述べないが。

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時間旅行者はネットの海を漂う

 ネットの海というのは、今となっては古臭くて、すごくカッコ悪い言葉だな。

 前にも似たようなことを考えたことがあるんだが、ネットゲームの中にいるキャラクターは、独自の時間軸を持っているように思う。
 もちろん、ゲーム内での時間は存在するわけだけど、それに加えて、各キャラクターはそれぞれが固有の時間軸を持っていて、ゲーム内の時間軸と一部分のみ共有する。
 わかりやすく言うと、ログインしているときだけゲーム内の時間軸と一致してて、ログアウトしてから再びログインすると、その間のゲーム内時間をすっ飛ばして、またゲーム内の時間軸に一致することになるってとこかな。キャラクターにとっての時間軸は連続だけど、そのキャラクターにとってのゲーム内の時間は間が抜けたように不連続だ。
 もっと端的に言うと、未来への一方向のタイムトラベルを繰り返している。まあ、キャラクター作成時からログインしっぱなしで、一度もログアウトしていないキャラクターは例外だけど。
 ログアウトしてから、ログインするまでの時間が長ければ長いほど、実感としてのタイムトラベルっぽさは増す。

 最近、某有名ネットゲームが、昔アカウントを持ってたけど既に消えてしまっている人を呼び戻そうと、またログインできるようにしましたから昔のアカウントでどうぞ、っていうようなキャンペーンをやっていた。
 僕はやらなかったんだが、数年ぶりにログインした人から聞いた話。

 ログインしたはいいんだけど、PCの調子が悪かったのか、操作ができなくてすぐに死んでしまったらしい。
 仕方がないので、一旦ゲームを終了して再ログインしたところ、ちょうど通りがかった人に復活させてもらった。お礼を言っていると、助けてくれた人が
「えっと、いつの時代の人ですか?」
 その連れと思われる他の人たちも
「うわあ、こんなアイテム見たことない」
「これって、今はもうないよね?」
「久しぶりにこのアイテム見たなあ」
などと口々に言う。
 もちろん、言われているほうだって、なんかみんな見たことない格好してるし、変な生き物を連れていたり乗っていたりするし、景色も見覚えがなくて「ここどこ!?」な感じだし……とまあ、驚きの連続だったらしい。

 これはまさにタイムトラベラー! 特に冷凍睡眠ものの感じかな。『夏への扉』にもこんなシーンがあったなあ。
 SF者はこれだけで三杯はメシが食える。

 SF脳で思考する人間にとって、森羅万象すべてSF、なので、森羅万象ですらない仮想空間などSF以外の何者でもない。
 たぶん、実際にネットゲームに興じている人たちは、ネットゲームのSF性など感じていないだろうな、という気はするけど、そういう無自覚なところが余計にSFマインドをくすぐるんだよなあ。ともかく、その真っ只中にいる人たちにとっては、それはリアルであってSFじゃないだろう。

 というわけで、僕は自分では手を出さず、他人のプレイを見てるだけで、よだれをたらさんばかりに喜んでいたりする。まあ、見てるだけというのがたまらないわけだけど。
 ん? なんかずいぶん変態っぽいな。

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スウィング戦国

「あー、こっち生中ふたつね」
「なんか、すげー久しぶりだな」
「ん。そうだな。ところでさー、『スウィング・ガールズ』ってあるだろ」
「あー、あの『ウォーターボーイズ』の男子シンクロを、女子吹奏楽に置き換えた映画」
「ふと思ったんだが、あれSFにならないかな」
「どうするんだ?」
「マーチングバンドがひと楽団、まとめてタイムスリップする」
「ん? つまり『戦国自衛隊』の吹奏楽版か?」
「飲み込みが早いな。俺たちが日本の音楽史を作り変えるんだ! って感じで」
「金管はいいが、木管楽器は大変そうだな。手持ちのリードが尽きたらどうするんだ」
「クラリネットとサックスは頑張れば作れそうだけど、オーボエなんて絶望的だな」
「まあ、オーボエ奏者は少ないだろうけどな」
「想像してみろよ、大名行列がマーチングになるんだぜ?」
「……なんか、チンドン屋っぽくないか?」
「生中お待たせしましたー。あの、お客さまー」
「わ、来た」
「確かにお客様のアイディアは発想の転換ですが、SFあたりじゃ2番目ですねー」
「なに?! 飛鳥了を殺したのは僕じゃないぞ?」
「一気に飛ぶなよ。ていうか、飛鳥了は殺せないだろう」
「時代劇でジャズって言えば、『ジャズ大名』ですよねー」
「ッッ!! 筒井かッ……」
「ほう、筒井康隆が書いてるのか?」
「駿河だかの小藩にニューオーリンズからの黒人カルテットが流れ着いて、藩主が大喜びでジャズセッションに興ずるっていう大傑作なんだ」
「それ、傑作なのか?」
「幕府と薩長の戦争が勃発する中で、藩主はどっちにつくか迫られた挙句、城内の全員で城の地下牢に引きこもり、すべてを忘れてジャズセッションで乗りまくるってのがいいんだよ」
「いいのか、それで」
「古谷一行の主演で映画にもなってますねー」
「なるほど。まあ、お前の想像力なんぞ、その程度ってことだな」
「あの映画がまたいいんだよな。映像はチープなんだけど。お殿様が、かみしも着てクラリネット吹くんだもんな」
「それが後の『殿様キングス』になるんですよね」
「いやまて、それは嘘だろう?」
「ごゆっくりどうぞー」



スウィング・ガールズと戦国自衛隊から、戦国吹奏楽団を思いついたのは本当。
『ジャズ大名』は映画も大傑作。

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肉骨格・マスィーーン

ふと思った。

『ネフィリム』(小林泰三 角川書店)の「ドクター・マル・・・」が、

「ドクター丸鋸遁吉」だったら、呆然とするだろうな・・・。


まあ、ちょっと嬉しいんだけどね。

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具アルマドゥラ

 『グアルディア』(仁木稔 ハヤカワSFシリーズJコレクション)読了。

 心から愛したものは失われて、それとほとんど同じではあるがそのものではないものだけがそばにある、そんな人たちの物語だった。

       と思った。

 戦乱とウィルスの蔓延によって文明の滅びた世界で、南米を舞台に、失われた文明の叡智を結集したコンピュータに唯一アクセスできる生体端末と、同じく失われた文明の生み出した最高の兵器である生体甲冑と完全に融合した唯一の人物。彼らが人々を動かし、世界を動かす。

 なんかこうして書くと安っぽいなあ。
 実際には南米の、ある種猥雑な混沌を背景に、様々な立場の同じような人物の心理が、色々な角度で描かれていて、惹きつけられてやまなかった。バロック様式っていうのかな。スパイシーな味がする、暑くて埃っぽいようでいてむせ返るほど濃厚な空気。こういうのに、ちょっと弱い。

 正直なところ、これをSFにカテゴライズしていいのかなあ、と、ちょっとだけ思った。
 SF的なガジェットはたくさん出てくるんだが、テーマになってるのはあくまで人間の心理であって、複雑な境遇の人たちが、それぞれの立場で自分自身の問題を乗り越える、ということが全編を通して描かれている。SFには欠かせない「なるほど、そうだったのか!」という具合に、目の前の色々なことが組み合わさって新しい景色が広がってゆく、というのが希薄なんだよな。
 まあ、面白ければSFかどうかなんて、どうでもいいことなんだけどね。普通は。

 もっとも、最も愛したものと同一だがそのものではないものを前にしたとき、人はどうなるのか、ということを描くためには、普通のシチュエーションじゃダメで、クローンだったり、長寿命種(メトセラ)だったり、変異体だったり、完全侵蝕体だったり、SF的な道具立てが不可欠だったのはわかる。
 そういう意味では、これはSFに間違いないんだよなあ。
 ティプトリーの『グッドナイト・スウィートハーツ』とか、ちょっと思い出した。あと、P.J.ファーマーの『恋人たち』かな。

       と思った。

 ただそうすると、生体甲冑なんていらないよな、というふうに思った。構造としては生体端末とメトセラたちの方が複雑で面白いし、 生体甲冑には相手が失われる、という要素が薄いし、同じような構造をもうひと組用意しなくても、十分に描ききれるんじゃないかなあ、という気がしたからだ。
 僕ならそんなふうにはしないんだけどなあ、というところがいくつかあって、ネタとしてはすごく興味をひかれるだけに、何となく歯がゆい感じがする。

       と思った。

 その疑問があとがきを読んで氷解した。
 なるほど。まず生体甲冑のアイディアがあって、それが存在できる世界、ということで構築されたのが、舞台となるこの世界だったらしい。
 そうか。つまり、書きたかったのは何よりまず生体甲冑で、最愛のものの複製が云々・・・ということは、それを書くための道具立てだったに過ぎないわけだ。僕の考えとは主従が完全に逆だったのだな。

 ある種のSF的ガジェットを無理なく出すために、それが存在できる世界を丸ごと構築してしまう、というのは、それ自体実にSF的だ。モビルスーツを出すためにミノフスキー粒子とコロニーのある世界設定を作ってしまうみたいなものだな。
 そうやって思い返してみると、うん、確かに生体甲冑はカッコイイなあ。

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シャドウ・オブ・三部作

 『シャドウ・パペッツ』(オーソン・スコット・カード ハヤカワ文庫SF)読了。

 読み終わった直後の感想。
「え? 三部作じゃなかったの!?」
 あとがきを読んだら、2005年3月に”Shadow of the Giant"が刊行予定らしい。
 前に本屋の洋書コーナーで"Shadow of the Hegemon"を見かけたとき、帯にShadow Trilogyと書かれていたのを読んだ覚えがあるんだけどなあ。
 そういえば、エンダーも四巻目の『エンダーの子供たち』で完結したんだよな。英米文学では三部作の形を好むものみたいなんだけど、そのせいで作者の意向に関わらず三部作扱いにされてしまったのかなあ。

 それにしても、ビーンは1巻でエンダー、2巻でピーターの影を務めてきたわけだけど、今回は誰の影というわけでもないんだよな。それがちょっとなあ。まあ、トップの立場を降りてアンダーグラウンドに近い逃亡生活を送りながら、趨勢を動かす重要人物に働きかける、というのはビーンらしいんだけど。
 てっきり、兄貴のニコライの影になるんだと思ったのに(それはないか)

 イスラム文化が世界の安定に大きな役割を果たす、という展開は、いわゆる9.11以降の世界で民族文化がどういうスタンスで自己主張してゆくか、ということにカード自身が何かの提案をしているということなのかなあ。
 とはいえ、宗教的イデオロギーとは全く無縁のようなビーンが、他者を赦し、愛情というものを理解し、さらには家族を構築しようとする、という流れには驚いたな。確かカードはモルモン教徒だったはずだから、そのあたりの着地点にうまいこともって行く方便なのかもしれないけど。

 しかし、3巻ではビーン自身の影というか闇の部分であるあの人が退場してしまったから、4巻はどうなるのかわからないな。たぶん、ビーン自身の最期ということになるんだろうけど。
 和訳は再来年かなあ。うーん、それにしても、さすがに原書で読むエネルギーがあるかどうか...

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三本足がくる!!

 SFマガジンの新刊情報を見ていて、思わず声をあげてしまった。

 あの三本足シリーズがハヤカワ文庫SFで出るッ!
 しびれるほどにうれしい。隣室からのいぶかしげな視線を無視して、自分の世界に没頭しながらガッツポーズした。

 『鋼鉄の巨人』は僕が初めて「SF」を読もう、と意識して手にとった本だったと思う。図書室にあった表紙の擦り切れたSFジュブナイルシリーズの一冊だった。
 SFとしては『地球さいごの日』『宇宙船ビーグル号』『宇宙戦争』に続く4冊目だったと思うんだが、SFというジャンルを目的にして選んだ最初の本がこれだった。表紙に描かれた銀色の歩行機械に目を奪われたのを覚えている。ウェルズの宇宙戦争の後だったから、というのもあるんだろうけど。
 緑の草の上、青い空をバックにそそり立ち、円盤状で銀色の胴体から銀色の触手を馬に乗った少年に伸ばす三本足の機械。少年は今にも落馬寸前で、よほど必死に逃げたためか恐怖のためか、馬は棒立ちになりかけていて、口から泡を吹いている。
 なんとも言いようのない恐怖を感じているのに、どういうわけか目をそむけられない。
 そんなわけで手にとったのが始まりだったと記憶している。ま、若干の記憶の美化はあるだろうけど。

 これが三本足シリーズの第1巻だった。
 今調べてみてわかったんだが、表紙を描いたのは、あの武部本一郎画伯だそうだ。なるほどね。納得。我ながら幸運な出会いをしたんだな。
 シリーズものの「続きがある!」という喜びと、夢中になって読み終わった後の「ああもう続きが読めないんだ!」という悔しさにも似た気持ちを味わった、最初のSFなのは間違いない。


 ストーリーはフランスかどっかの片田舎から始まる。なんてことのない中世っぽい農村なんだけど、そこに時折現れるのが銀色の金属でできた三本足の巨人。
 村人はこれを「良いもの」としてとらえている。畏敬の念を抱いている人もいる。
 村ではある年齢になると、三本足のもとに行き、「頭の輪」というものを装着してもらうことになっている。これによって一人前としてみとめられる。物事が良く理解できるようになり、大人社会の仲間入りができるようになるわけだ。
 ただ、たまに頭の輪をつけた直後に、どこかおかしくなってしまう人がいて、知能退行を示したり、放浪するようになったりする。これが「さまよいさん」。凶暴性はないので、どこの村でもさまよいさんに公共の寝床と食事を提供する質素な設備がある。さまよいさんはふらりとやってきて、またいずこかに去ってゆく。

 ここまで書けば、まあ想像はつくだろうけれど、頭の輪というのはもちろん洗脳機械ですな。

 主人公の少年は、母親がさまよいさんの世話をやくボランティアをやっていた関係で、さまよいさんを良く見ているせいか、頭の輪に対してどうも不安というか、不信のようなものを抱いている。ところが、それを言っても大人は「お前も大きくなって、自分で頭の輪をつければわかるよ」としか言わない。なおも理詰めで食い下がると怒り出す。
 友達も、むしろ早く頭の輪をもらって大人の仲間入りをしたい、と思うものばかりで、主人公の言うことを理解してくれない。
 ますます不信感は大きくなる一方なのに、それを話す相手もいないまま、ひとり悶々としている主人公は、ある日、村はずれで新顔のさまよいさんに出会う。
 どうも何となく雰囲気が違うような...と思っていると、周囲に誰もいなくなったとき、さまよいさんがそれまでとは打って変わったしっかりとした口調で、主人公に囁きかける。
「頭の輪がおかしいと思っているね? 君もあんな大人たちのようになりたいかい? 本当のことを知りたければ、白い山脈を目指せ」
 そうやって、さまよいさんに渡された地図を手に、主人公は村を飛び出す。

 つまり、侵略ものというか征服もののSFで、侵略者に征服され、すっかり洗脳されてしまって百年あまりが過ぎ去った地球が舞台。地球人はすでに文明も大半を忘れ去っており、中世に近い農耕牧畜生活を送っている。
 大人社会に対する思春期の少年の漠然とした不安と、それが実は隠された悪意による「作られた社会への強制的な同化」であったという陰謀論が絶妙に交じり合い、読んでいてものすごく引き込まれた。

 旅の途中で知り合った少女が最初は主人公の言葉に興味を示し、いくばくかの理解を見せてくれるんだけど、その子が頭の輪をつけた途端、「あなたたちは間違ってるのよ。頭の輪をつければそれがわかるわ」などと言うようになるシーンなんて、一種のトラウマだ。

 ネタを割ってしまえば、多大な犠牲を払った壮絶なレジスタンス活動の末に、ついに主人公たちのグループは侵略者の手から地球を取り返すことに成功するんだけど...これがまたハッピーエンドとは言えないんだよなあ。

 長年古本屋を巡ったけれど、どうしても見つけることができなかった。それが読める。今月から2ヶ月おきにハヤカワ文庫SFから『トリポッド』シリーズとして、4冊出るらしい。
 僕が読んだのは全3巻だった。それも、子供向けの字の大きい本で。ハヤカワ文庫で4冊? どれだけあるんだろう。当時のジュブナイルの翻訳ものって、結構大胆に話をはしょったり、はぶいちゃったりしていたから、原作はもっとボリュームがあったということは十分にありえる。

 うーん、早く読みたいっ!! これから半年の楽しみだ。
 そして来年の5月には、2x年前と同様に、「ああ、読み終わってしまった!」と地団駄を踏むのだ。

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昔、人面町のあったザリガニの海に浮かぶかめ星人

『人面町四丁目』(北野勇作 角川ホラー文庫)読了

 北野勇作作品すべてに言えることだと思うんだけど、現実と非現実の境界が徐々に曖昧になって、それに何となく気がついているのに、「まあ、そういうもんかもしれないなあ」と、なんとなく受け入れてしまっている、というのどかな不条理が気持ちいい。昔どこかで見たことあるような、記憶のどこかで引っかかるような、既視感に近い感覚にしびれる。あるいは、何度も同じことを繰り返しているんじゃないだろうかという不安すら、肌に馴染んでいるような。
 それでいてファンタジーと言うよりSFの背骨を持っているしなあ。

 そんなことを考えつつ、出張の帰りの電車の中で読んでいたら、乗り換えを間違えた。別の路線に分岐していることに気がつかなかったのだ。

 ふと気がつくと、何度も出張して見慣れていたはずの景色はどこかに消え失せ、夕闇の迫ってきた見慣れぬ町は閑散として物寂しい。
 車内の路線図ですぐに間違いに気がついて、あわてて電車を降りた。ほんのひと駅戻るだけなので、大したロスじゃない。
 駅前だというのに周囲は暗く、人気のないホームは蛍光灯の明かりも寒々しい。
 何となく落ち着かない気分で再び『人面町四丁目』に目を落としていると、アナウンスが電車の通過を知らせた。やってきたのはディーゼル機関車だった。よく、貨物列車を引っ張ってる赤くて真ん中の人が乗るところだけ、ちょっと高くなってるヤツだ。
 そいつが、何にも牽かずに一台だけで、ごとんごとんと通り過ぎていった。
 妙に不条理な光景を見ているような、それでいて、それがあってもおかしくないような気もする、曖昧な気持ちのまま立っていると、めまいにも似た現実喪失感が、ほんの一瞬だけ襲ってきた。

 ああ、なんとなく北野ワールドだよなあ。この、どこかでいつか体験したような既視感。

 既視感? いや、違うぞ。
 そして唐突に思い出した。
 そういえば、学生時代にも同じような感覚を抱きながら、がらんとした江ノ島行きの電車の中で、途方に暮れて座っていたことがあったっけなあ...   実は何度も。

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